経営者インタビュー

「8つの手痛かった学び」とは? — ビジネスバンク代表 浜口隆則が創業から20年を振り返る

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「あの時、こうしていれば」と、自らの判断を悔いた経験は、経営者なら一度や二度ではないだろう。だが、その手痛い失敗に向き合い、糧にすることも、経営者の仕事なのかもしれない。

ビジネスバンク創業者の浜口隆則は数千人の起業家を支援し、経営を体系的に教える講師として全国に多数のファンを持つ。しかし、成功者としてフューチャーされる一方で、自らも起業家として多くの知られざる失敗を経験している。今回は浜口隆則に、あえて自身の「失敗」にフォーカスして貰った。2017年2月9日に創業から20周年を迎える彼に、経営者としての「手痛い学び」を振り返ってもらおう。

— 2016年もいよいよあとわずかです。この一年を振り返って、いかがでしょうか?

浜口- 我慢の一年でしたね。新しい挑戦であるALL-IN事業は、完成度も高まり、ようやく離陸が見えてきたという感覚です。0を1にするフェーズなので、厳しいのは当然。来年からは、もっと攻めていきたいと思います。

— 今回の取材は「手痛い失敗」ということですが。

浜口- まとめて記事にしてもらうことはなかったので、興味深い試みですね。あまり失敗していないという印象が強いかもしれないので、意外と私もたくさん失敗しているということを読んだ人には思ってもらえれば(笑)

— 失敗のシェアだからこそ、得られるものも多いと思います。それでは早速お話を聞かせてください。

浜口- 時列系でお伝えした方が分かりやすいと思うので、創業期から順を追ってお話したいと思います。よろしくお願いします。

浜口隆則の「8つの手痛かった学び」

それでは、浜口隆則の「8つの手痛かった学び」を振り返っていこう。創業期から順を追うかたちで、時列で記していく。

手痛い学び1.「最初から大掛かりではじめた」―1997年

浜口- まず1つ目の失敗ですね。「最初から大掛かりではじめた」ことです。大掛かりというのは「人」と「ビジネスモデル」という2つの意味で大掛かりでした。

まず「人」について説明すると、創業時にいきなり社員4名体制で始めました。しかも、私を含めて就業経験が浅く、社会人になったばかりのメンバーたちでした。未熟な状態から一人前になるまで時間を要し、教育してくれる人も社内にはいなかったので、売上を立てられるようになるまで、とにかく大変でした。

次に「ビジネスモデル」はレンタルオフィスという業態を選んだことです。不動産の契約や設備費用など初期投資が大きく必要なモデルで、最初にキャッシュがたくさん必要でした。

大掛かりで始めたことで、最初の3年間はお金が足りずに悩み、苦労しました。私の給料はまったく取れないという時期が続きましたね。

今思えば、子供が三輪車から始めず、いきなり大きな自転車に乗るようなものだったと思います。逆を言えば無知の蛮勇というか、世間的な常識とは違う発想だったからこそ、鍛えられて、後々レンタルオフィスでNo.1になれたのかもしれません。学びとしては、今で言う「リーンスタートアップ」の流れを踏めば、あそこまで苦労しないで済んだかもしれませんね。

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手痛い学び2.「いきなり詐欺にあった」―1997年

浜口- 2つ目は「いきなり詐欺にあった」ことです。創業してすぐ、前職でお付き合いのあった方に「息子の手術費用でどうしても200万円が必要です」と相談を受け、資本金300万円のうち、個人で出資した分の200万円を貸してしまったのです。

結局、その方は詐欺師だったことが判明し、私の貸した200万円はその人の借金返済や飲み代に消えていたことが分かりました。若かったこともあり、その当時は悪意を持って他人を騙すような人が、世の中に本当にいる実感がありませんでした。良くも悪くも純粋だったのだと思います。

社員を4名も抱えた状態で、お金がかかる事業を選び、更にいきなり騙されて資本金を失い、苦労に拍車が掛かる事態になってしまいました。しかし、そのお陰か、怪しい人はすぐに見分けがつくようになりましたし、詐欺にあうことはそれ以来は全くありません。もし、あの時に詐欺にあわなければ、桁が違う金額の詐欺にあっていた可能性もあります。そういう意味で「授業料」として良かったと思っています。

手痛い学び3.「契約書は、細かい所も見るべき」—2000年

浜口- レンタルオフィスが東京に出店して、事業としてのティッピング・ポイントをちょうど迎えたころの出来事です。長野店から始まり、西新宿店、渋谷店と出店を続けて、その次に、北青山店を出す予定でした。立地や建物、条件面まで完璧で、是非とも契約をさせて頂きたい物件でした。しかし、契約を締結し、工事や内装もすべて終わり、いざ営業を開始するというタイミングで事件は起こりました。

契約書上に「レンタルオフィス」を行うと明記していなかったことから、転貸につながるとオーナーが激怒し、契約破棄の申し出を受けたのです。当時レンタルオフィスは新しい事業体だったため、オーナーの理解を得ることができないと考え、契約書にあえて記載するように求めていませんでした。オーナーにお詫びし、何度も話し合いの場を持ったのですが、理解を得られることができず、結局撤退することになってしまい、投資したお金はすべて水の泡になってしまいました。

その時の学びとしては「契約書は、細かい所も見るべき」ということです。穏便に済ませたい、誤魔化そうと思うのではなく、自分たちが不利なこともちゃんと記載しなければならないことを学びました。当たり前のことかもしれませんが、当時の私たちには欠けていました。

ちなみに、北青山の物件を撤退して学んだことを活かし、リーガルチェックを徹底するようにしました。それから出店した南青山店が大ヒットして、完全に事業の勝ちパターンが見えました。ですから、あのタイミングで痛い目をみて良かったのだと思っています。

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手痛い学び4.「成功して平和ボケした」―2004年

浜口- レンタルオフィスが完全に成功し、勝つことが当たり前になると、会社は安定し、役員を始めとして、メンバーはそれなりの給与を得るようになります。それはそれで幸せなことなのですが、一方で問題もあります。それが「平和ボケ」現象です。この現象は2012年にレンタルオフィス事業を売却するまで続きました。

当時、レンタルオフィス事業はストック型で、毎月数百件もの家賃が自動的に入ってくる状況だったので、強い収益基盤を持っていました。しかし、それがゆえに新たなチャレンジをする理由を失うことにつながっていました。

それでは良くないと考え、何種類か新たな事業をスタートさせましたが、結局小規模な事業しか生み出せない状況が続きました。本気で0→1をやろうと思うと、それなりにハードです。本体が安定しているため、危機感がなく、誰も覚悟を持って取り組むことができませんでした。

チームが「平和ボケ」に浸っているときに、レンタルオフィスを立ち上げた時のように死ぬ気で第二の柱をつくるために動けなかったことは悔いがあります。自分にもう少しリーダーシップがあれば、状況は変わっていたのかもしれません。私が最も危機感を持っているつもりでしたが、少なからず私自身も平和ボケしていたのだと思いますね。

手痛い学び5.「”戦わない経営”がベストセラーになった」―2007年

浜口- 2007年に出版した処女作の「戦わない経営」がベストセラーになりました。ありがたいことに全国の書店に置いていただき、たくさんの経営者に読んで貰えました。また、私の名前やビジネスバンクという社名をより多くの方に届ける切っ掛けになりました。

しかし、部数が伸びて嬉しく思う一方で、ベストセラーになってしまったがゆえの悩みもありました。それは「戦わない経営」というタイトルが持つ「ゆるさ」です。読み手によっては「戦わない経営」の真意が理解されず、戦えない人たちの救済の本のような扱いになってしまったのです。

著者の私も、まるで仙人のような「戦わない人」としてのキャラクターを期待されることが多くなりました。ゆるい感じでいなければいけない、挑戦することを控えなければいけない、という暗黙のプレッシャーを感じ、どこか演じている自分がいました。

その後「社長の仕事」や「起業の技術」を出版してからは吹っ切れましたが、2007年に出版された「戦わない経営」のパブリック・イメージを吹っ切るまで、5年近くの時間が掛かりました。自分の代表作ができることの功罪を、両方味わえたことは大きな学びになりました。

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手痛い学び6.「起業家志望の新卒採用」—2010年

浜口- 経営者としての歴史上、最大の失敗かもしれません。2010年度から5期ほど「起業家を目指す大学生」を新卒採用のコンセプトにしていました。累計で30名ほど採用したでしょうか。

このコンセプトで新卒を採用した背景は、私自身が想像以上にビジネスでうまくいったので、同じような人を増やしてあげたいという想いからでした。私が起業前に欲しかった環境を用意してあげれば、いずれ同じような結果を得ることができると考えたのです。起業家を増やす、というビジネスバンクのミッションにも通じるものがありました。

いずれ独立して辞めてしまうことを考えれば、会社側からすると、ある程度の痛手になることは覚悟しなければなりません。しかし、学生の頃から明確に起業家を志すような人は比較的優秀だと思っていたので、仮に2−3年で辞めることになったとしても、少なくともマイナスになることはないと考えていました。そして、起業家を目指す人間なのですから、意地でも最低限の収支を合わせることはするだろうという希望もありました。

育成方針は「自由にやらせること」でした。自力で学び、自力で成長して、自力で成果を出す。会社に求めるのではなく、自ら会社に与えられる人材を目指してほしかったからです。起業家になりたいのなら当然のことです。私自身の経験からも「起業家になること」は、そういうことだと思っていました。そして、どれだけ失敗したとしても給料はゼロではなく、保証しています。この環境下で、成功体験を作ることができれば、必ず起業しても結果を出すことができると信じていました。

しかし、自分でできる人は本当に僅かだったし、自分の好きなことしかやらない人ばかりでした。また、心配していた以上に酷いもので、成果を生み出す前に辞めてしまう人がほとんどでした。結果として、事業で大失敗するほど大きな損失を被ります。そして、人にまつわることなので、深く傷きました。私を含めた経営陣全員が疲弊しました。

— いま振り返って、改善するとすればどんなことをしますか?

「自由にやらせてあげる」という最初の仮説が間違っていたと思います。6割くらいはリードをしてあげれば、どのメンバーも成長したと思います。しかし、本当に起業家を目指すのであれば「自立性は必須」という思いもあったので、残念ですし悔しいですね。

私の理想は「自立型の組織」をつくることです。それは今も変わりません。この理想を達成するためには、メンバーが未熟なうちは、自由なことがマイナスに働くこともあるということを心底学びました。セルフコントロールできる人は本当に少なく、自立的に仕事ができる人は皆無です。ですから、人の弱さをバックアップする仕組みが絶対に必要でしたね。

手痛い学び7.「リーンスタートアップ」—2014年

浜口- 創業期にリーンスタートアップをしなかったために苦労したことは先程お伝えしました。しかし、その学びによって逆に失敗をすることになりました。

2014年からスタートしたALL-INという弊社が提供するクラウド経営基幹システムの事業があります。ALL-IN事業は、創業期の反省をふまえて、プロダクトをまずリリースしてみて、ユーザーの反応を見つつ段階的にプロダクトを磨いて、リソースも増やしていくという手法(リーンスタートアップ)を採用しました。

しかし、基幹システムという特性から、ユーザーが求める最低限のハードルが想定以上に高く、リーンスタートアップの手法にまったく向いてなかったのです。それなりに頑張っているのですが、まったく成果が出ないという状況が続きました。

今にして思えば、そこそこのキャッシュは持っていたので、初期に徹底的に投資をして完成度を極限まで高めてから販売を開始すべきだったと思います。

「手痛い学び1」で学んだことを実践したのですが、それが返って失敗に繋がりました。ですから、一度学んだことが必ずしも次に繋がるとは限らない、という学びですね。商品や市場、自社の状況を見て、経営者は臨機応変に打ち手を変えなければなりません。

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手痛い学び8.「拡大を志さなかった」—2014年

浜口- 最後は「拡大を志さなかったこと」ですね。これが最も深い後悔かもしれません。創業からレンタルオフィス事業が完成するまでの10年目までは、まだ良かったと思います。しかし次の10年は、そのまま拡大すべきでした。

— 当時考えていたこととは?

浜口- 創業時から「小さな会社」が認められる社会を目指していました。当時はまだ「小さな会社=ダメ」という社会的な風潮がありました。ただ、それでは起業しようとする人は増えないと考え、小さくても良いんだ、というメッセージを発信することにしました。

私たちが「小さいけど、すごい会社だ」と認められるロールモデルになろうと考え、徹底的に少数精鋭の方針を取りました。結果として一人あたりの売上1億円を超え、利益では1人あたり3000万以上、7−8人で億単位の利益を稼ぐ会社にすることができました。

— 著書「誰かに話したくなる小さな会社」の出版やグループ会社のスターブランド社もそういった背景で設立されたのですよね?

浜口- そうですね。結果として「小さくてもブランドを持つ会社」や「ブランドを持つ個人」がピックアップされ始め、起業する人は増えたと思います。それはとても良いことです。

「小さなこと」が認められる社会になった一方で「小さく留まる起業家」が増えてしまったと感じています。その人の実力を考えれば、もっと大きな会社にして、雇用を生み、より多くの価値を提供できるはずなのに勿体ないと感じることが多くなってきました。厳しい言い方ですが「ゆるくやっています、気楽にやっています」そういう起業家が増えてしまったとも思います。

— 旗振り役だったのが、考え方を変えたと?

浜口- 日本が今のような経済大国になったのは、今は大きくなった会社が世界に向けて勝負し、切った張ったの世界で命がけの戦いを海外企業と渡り合ってきたからだと気づいたからです。小さな会社はそういう土台の上でゆるゆるやっているだけのように思えてしまいました。もちろん、全てを否定することはしませんし、全ての人に当てはまることだとも思いません。しかし、優秀な起業家は、小さく留まるのではなくもっと社会のためになるよう全力を尽くすべきだと思っています。

私自身も、今は拡大を志向し、外貨を稼ぐ企業体をつくりたいと考えています。そう本気で考えたのが、2014年頃ですね。もっと早くにそれに気づいて拡大方針を打ち出していれば良かったと思います。

まとめ―シェアを振り返って

— 「手痛い学び」でしたが、振り返ってみていかがでししたか?

浜口- こんなに失敗してよく20年も生き残ってこれたな思います(笑)読んでいただいた方には「こんなに失敗していたのか」とビックリされる方もいるかもしれません。赤裸々に話してみましたが、いかがでしたか。感想を頂けると嬉しいです。

— 意外にも多くの失敗を経験されていて驚きました。

そうですね。経営をしていて、もし「最近、失敗していないな」思うようであれば、挑戦していないことを疑った方が良いでしょう。今回振り返ってみて思うのは、失敗をした時が一番成長していることです。レンタルオフィスで成功して、平和ボケしていた時代は良い時代でしたが、成長はそんなにありませんでした。

経営をしていれば絶対に失敗をします。私もそうでした。失敗はつらいし大変ですが、前進するためには不可避だと割り切った方がいいですね。重要なのは失敗から何を学ぶかです。学んで改善していけばいずれ成功につながりますから。きちんと学べば、その時はピンチにしか思えなかったことも、何年か経ってから血肉になっていることを実感できます。

また、失敗からのリカバーを一人だけで行うのは大変です。私の場合は、創業メンバーが一緒になって解決してくれたので、それが非常に有難かったですね。

— なるほど。ありがとうございました!

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